近くの歴史散歩道 文:小田昭午(犬山市)
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(1) 前原を通っていた木曽街道
「下に、下に」の声を響かせて、江戸(今の東京)へ向かう尾張の殿様の大名行列が前原を通過して行ったのです。
 東小学校へ登校する皆さんは「前原」と言う信号のある交差点を東から西へ真っ直ぐに突っ切りますが、直進し対して左30度程斜めに入る狭い道があります。あの道が「木曽街道」と言う江戸時代のメインストリートなのです。
 この道をたどって行きますと安戸を経て羽黒の朝日という信号のある交差点に出ます。さらに進みますと楽田追分(おいわけ)を通過し、小牧を抜けて名古屋の水口に達します。
一方前原の交差点を北へ進みますと、前原の町を抜けて杉の点滅信号のある交差点に出ます。更に北へ進むと、国道41号線の下を潜り、城東小学校の西を回って、善師野の伏屋に出ます。山道を登り峠を越えますと土田です。この道は、今渡の少し先で中山道(なかせんどう)に合流します。名古屋清水口からここまでを木曽街道と呼んでいました。
 この木曽街道は中山道を使って江戸へ向かう旅人で賑わったものです。
 名古屋から江戸へは東海道がありましたが、東海道には天竜川や大井川といった大きな川があります。こちらの川は渡し船で渡るのですが、雨が降って水かさが増えると渡し船が出なくなります。そのようなこともあって、今私たちが想像する以上に中山道は賑わったのです。
 善師野の伏屋には宿場と言って旅人の宿泊設備や乗り継いで行くための馬が用意されていました。
 前原には立場と言って旅人の休憩所がありました。茶店などがあったのでしょう。
 木曽街道沿いには多くの遺跡や文化財があります。
地図:犬山市域の木曽街道
出典:愛知県歴史の道調査報告書X
        −木曽街道−
発行:愛知県教育委員会

(2) 天道さまの故郷は入鹿池

愛知用水沿いの道を歩いていますと大同メタルの工場の屋根越しにこんもりした森が見えます。これが天道さま、正確に言いますと天道宮神明社の森です。
このお宮の鳥居は前原の町を南北に貫いている昔の木曽街道に面して立っています。
鳥居をくぐりますと200メートル以上もある真っ直ぐな参道が広葉樹におおわれていて、厳かな空気がただよっています。
参道の中ほどに楼門があります。この楼門には慶長15年(西暦1610年)改築の棟札がありますので、それ以前に建立されたと考えられます。愛知県の有形文化財に指定されています。
更に進んで本殿に近づくと、森は一層深くなります。左手に「白雲寺跡」と書かれた案内板が立っています。

         天道宮神明杜の楼門
白雲寺は天道宮の世話をしていた寺でしたが、明治3年(1870)神仏分離によって廃寺となりました。それまでは神社が仏様の加護を得る為にお寺を建てたりして神社とお寺は仲良くやっていた(神仏習合と言います)のですが、明治政府はそれを禁止しました。神仏分離令がそれなのです。古井戸が防護ネットに囲まれて昔の面影をとどめています。この森の少し南にもう一つの森が見えます。虫鹿神社の森です。前原台の虫鹿神社はこの神社の奥宮になります。虫鹿神社は大変古く、由緒あるお宮です。今から千年以上も昔に編纂された延喜式と言う政治のやり方をまとめた書物の中に出てきます。
天道宮と虫鹿神社、それに廃寺となった白雲寺、さらには天道宮の真向かいにある福昌寺などは昔、入鹿村にありました。今の入鹿池の湖底です。寛永9年(1632)入鹿池が作られる時、湖底に沈む土地の村人たちは分散して移住させられました。前原へ移住した24戸の人たちはこれらの神社やお寺と一緒に引っ越して来たのです。楼門もこの時移築されました。
入鹿の池は三方を山に囲まれた盆地状の低地で、いく筋かの川が流れ込み稲作に適した所でした。安定した住みなれた地を離れ、新しい土地で一から開墾を始めた先人の苦労がしのばれます。
入鹿池の堤防に立って池の方を見ますと、右手前方、池に突き出た小高い山が見えます。この山を天道山と呼びます。

(3) 羽黒の古戦場 八幡林

昔の木曽街道上にある羽黒の「朝日」と言う信号のある交差点を出発することにしましょう。
南へ進むと五条川に出ます。五条川の両岸には桜並木が続き、桜の名所であることは改めて言うまでもありません。川を渡って右折し、川沿いの道を行きますと名鉄小牧線にぶつかります。踏切りを渡ったらすぐ左折し、羽黒小学校の横を南に進みますと、羽黒八幡宮の林があります。この一帯は八幡林と呼ばれる古戦場の跡です。戦のあった当時は広大な松林で、その位置も東および北の方向に広がっていたようです。木曽街道が安戸の集落を通過する所に合戦橋と言う橋がありますが、この「合戦」の名の由来もこの時の戦いではなかろうか、と羽黒の郷土史家は話してくれました。
天正12年(西暦1584年)小牧・長久手の戦いの前哨戦とも言うべき戦いがここで繰り広げられたのです。
秀吉の武将、鬼の武蔵と恐れられた森武蔵守長可(森蘭丸の兄)の率いる3000人の兵と家康方の酒井忠次らの5000人の兵とが激戦を交えた末、森長可の軍が惨敗を喫し、居城の金山城(現在の兼山町)へ引き上げた戦いでした。
この時、森長可の忠臣、野呂助左衛門は一歩も引かずに奮戦し、遂に戦死しました。助左衛門の長男助三郎は一旦後退し始めたが、父の死を聞いて引き返し、獅子奮迅の活躍をしましたが、力尽きて倒れます。
八幡宮の北西の角から東へ100m程の辻に野呂父子の墓、野呂塚が立っています。
森長可の敗戦を聞いた秀吉は12万の大軍を率いて大阪を発ち、犬山城に入ります。一方家康も小牧城に入り、ここに本陣を置きます。小牧・長久手の戦いの始まりです。
羽黒駅から名犬街道に出て、「羽黒」と言う交差点に立ち、北西の方向に目をやると、直線距離で100m程の所にこんもりとした小さな山が見えます。これが羽黒城です。古墳の上に築かれた城で、城主は代々梶原氏と言われています。小牧・長久手の戦いの時秀吉はここの砦を修築させ、山内一豊らに守らせました。
今は個人の所有になっており、城跡に登ることはできません。
帰りに羽黒駅前の市営の集会所「小弓の庄」に立ち寄って見て下さい。この建物は明治40年代に「加茂郡銀行羽黒支店」として建てられたものです。

         野呂塚

(4)入鹿池と入鹿切れの惨事

前原の交差点を南西にとり木曽街道を行きますと合戦橋を渡り、中部電力羽黒変電所の南側を通ります。変電所の正門から400m程南に進みますと右へ斜めに入る道があります。田圃の中の道が朝日の集落に入る所です。
右へ入って約80m行ったあたり、右側に「入鹿池洪水溺死群霊塔」が立っています。
慶応4年(1868年)の「入鹿切れ」による溺死者の供養塔です。長雨の続いた5月14日、尾張藩による懸命の応急工事の甲斐もなく、ついに堤防は決壊したのです。
濁流はたちまち丹羽郡一帯(現在の犬山市・江南市・扶桑町・大口町・一宮市の一部)62の村を一飲みにしました。その時の被害は死者941人、その惨状を「前代未聞の大変なり…」と羽黒水災記は伝えています。
羽黒城跡(本シリーズ3参照)の西に梶原景時の建立と伝えられる興禅寺がありますが、そのお寺の本堂の前に「入鹿切れ流れ石」と呼ばれている大きな石があります。入鹿切れの時に流れて来たとの言い伝えがあります。本当にこのような大きな岩が流れてきたとは思えませんが、その時の濁流の激しさを後の世に伝えたかったのでしょう。


入鹿洪水溺死群霊塔
入鹿池は寛永10年(1633年)灌漑用の溜め池として作られたもので、わが国の人造湖としては、1、2を競うものです。
戦乱の時代が終わって江戸幕府が開かれ、やっと落ち着きを取り戻した頃です。水不足に悩む小牧・春日井の台地の開発を考えていた江崎善左衛門ら、いわゆる入鹿6人衆を中心に尾張藩の工事として行われました。
池の堤は河内の国(今の大阪府)、「杁」と言う池の水の取り出し口の工事は一宮から、それぞれすぐれた技術者を招いての大工事でした。
池の完成後、池の水は多くの水田を潤し、新しい田の開発をうながしました。
堤のほぼ中央に「刀塚」という碑があります。
水没する前の入鹿村には豊かな水田が広がっていたことは本シリーズ(2)でも書きました。古くから栄えていた証拠に、ここには古墳があったのです。工事に先立ち、その古墳を掘ってみたところ、百振り余りの刀が出土しました。その刀を堤の下に埋めて、池の守護神としてまつってあります。
それがこの「刀塚」です。「刀塚」の碑の説明を要約して記しました。
堤の端から端まで歩いて見て下さい。いろいろな歴史に触れることができます。

(5)楽田追分と楽田城跡


羽黒の朝日交差点を南にとり、木曽街道を楽田に向けて進むことにしましょう。五条川を渡って1q程行きますと左側、道路の隅に「五里塚跡と書かれた石柱が立っています。名古屋の清水口から五里(約20q)の地点であることを示す塚があった所です。
さらに進み、名鉄小牧線の踏切りを越え、数百メートル行きますと右から来た道と合流します。この三さ路を楽田追分と呼びます。
三さ路の頂点に今は教会が建っていますが、つい最近までは空地になっていて、数本の石の道標が立っていました。名古屋の方から来た人のための道標で「右善光寺」「左三光神社」などと書いてありました。
右へ行くと木曽谷を経て、長野の善光寺に至ることを示しています。善光寺参りの旅人で賑わったことが想像できます。

現在の楽田追分(右:木曽街道、左:稲置街道)
左は犬山口を経て、三光神社に通ずる道であることを伝えています。三光神社は犬山城のすぐ西の山にありました。明治になって、犬山城は城門や櫓が民間に払下げられ、天守閣だけが残って犬山城公園になりました。その時、三光神社はここに引っ越してきました。針綱神社の西、赤い鳥居のお稲荷様がこれです。この道を稲置街道と呼んでいました。
この追分には「立場」と言って旅人が休憩するお店屋さんが軒を並べていました。
明治になると人力車の車夫が常に数人、囲炉裏を囲んで客待ちをしていたと言われます。明治後期には名古屋・犬山間の乗合馬車の乗場として賑わいました。出店には腰掛台の上に赤い毛布を敷き、酒・肴・てんぷら・追分饅頭などを売っていたそうです。
追分の道標は教会の建物と同時にどこかへ消えてしまいました。その中には「追分駐在所跡」という石柱もありました。
先を急ぎましょう。400m程進みますと県道に出ます。県道の若宮と言う交差点を左折。これは大県神社への直線道路です。小牧線の踏切りを渡るとすぐ右折します。楽田駅のホームの東側を通って南に進み、300m程行きますと数本の大きな木立にぶつかります。
「史跡城山」「楽田城跡」と言う日二本の石碑が立っています。このあたりが楽田城のあった所です。楽田小学校はこの城後に建っています。
小牧・長久手の戦の時、羽柴(後の豊臣)秀吉が本陣を敷き、小牧山城の徳川家康・北畠(織田)信雄連合軍と退峙したお城です。

(6)楽田城と物狂峠

楽田城は東西約70m、南北約100mの規模で、周囲には土居と堀を巡らせていました。城郭の中には二階建ての矢倉が建っていたと伝えられています。これは殿守と呼ばれ、城郭史には必ずと言って良いほどに登場する有名な殿守です。
16世紀の初め、この地方を支配していた織田久長が築城したと言われていますが、異論もでています。
楽田城が天下にその名を馳せたのは小牧・長久手の戦です。織田信長が本能寺で死に、その後の覇権を巡る羽柴(後の豊臣)秀吉と信長の次男信雄・徳川家康連合軍の戦いです。
天正12年(1584)3月信雄・家康連合は小牧山全山に要塞を築いて本陣とします。一方秀吉軍は楽田城を改修して本陣となし、小牧山城に圧力を加えます。
両軍合わせて数万の大軍が尾張北部の平野に展開して決戦の時を待ちますが、両軍の構えに隙がありませんでしたので、膠着状態が続きました。
待ちきれずに動き出したのが秀吉軍でした。大垣城主池田恒興の提案で、岡崎城を攻めることにしたのです。岡崎城は家康の本拠なので家康が慌てて小牧山城からでてくるだろうと考えたのです。
4月6日夜半、三万七千余りの大軍は池田恒興を総大将として楽田を出発し、物狂峠を越え、池の内、大草、関田を経て長久手へと向かいました。
先を急ぎます。この長久手の戦は池田軍の惨敗に終り、多くの死傷者を出しました。


現在の物狂峠
楽田の「若宮」交差点から大県神社の参道が真っ直ぐ東に伸びていて、約1q行きますと右斜めに分かれる道があります。「春日井桃花台」と言う標識が下がっています。小牧市池の内へ出る道ですが、途中峠を越えます。この峠を「物狂峠」と呼んでいたそうです。楽田の郷土史家に聞きました。
「物狂峠」は史料には出てきますが地図には見当たりません。
「物狂」を古語辞典で引いてみますと「巫女が霊魂を招いて狂い踊ること」とあります。傷ついた友を背負い、あるいは支え合いながら逃げて来た手負いの池田軍は、峠に差し掛かってついに力尽き、峠の道に屍の山を築いたことでしょう。
現在、峠の南側は採石場になっていて昔の峠を想像することはできませんが、峠の最も高い地点から100m程楽田の方へ下がったあたり、左へ分かれる道があります。暗い木立の中を通りますので「おどろおどろ」した妖気が漂っています。

(7)大県神社と青塚古墳


大県神社の梅まつりが始まります。植付けてからまだ5年程なので、豪華さはありませんが、約240本の枝垂れ梅が、紅白の花で愛らしさを競うそうです。3月初めが見頃とのことでした。
大県神社は大変古く、しかも由緒あるお宮です。今から千年以上も昔に編纂された延喜式(本シリーズ2でも触れました)と言う書物の中に出てきます。
尾張の国丹羽郡の社、「大一座、小二十一座」がのっており、その「大一座」が大県神社です。他の二十一の社より、格が一段高いことを示しています。
また、平安時代には尾張の国の「二の宮」として「一の宮」である真清田神社につぐ社格を与えられています。ついでですが、「三の宮」は熱田神宮です。
大県神社の祭神については色々な説がありますが、本宮山の麓を開墾し、西の方木曽川流域の村々をまとめ、最初に邇波県を支配した県主である大荒田命と考えるのが妥当のようです。
ここから3.5q程西の方に青塚古墳があります。「王塚」とも呼ばれていたようです。愛知県では名古屋の断夫山古墳につぐ二番目に大きな古墳です。四世紀中頃の古墳で、埋葬されている主は大荒田命ではないかと考えられています。
話は縄文時代の末期にさかのぼります。水田で稲を作る稲作文化を持った人たちが西の方からやって来て、濃尾平野に達します。しかしここまでやって来た稲作文化の東進は東部の山地に妨げられて、この地で二百年程ストップします。


納豆の消費量
出典:福田アジオ、「番と衆」(1997年)
発行:吉川弘文館
濃尾平野と東部の山地との接する線、この南北に走る線の東側を東日本、西側を西日本と呼んでいます。この南北の線の東側と西側とでは方言も違いますが、民俗・文化も大きく異なります。一例を挙げてみましょう。東側では蕎麦を、西側ではうどんを好みます。納豆は東側ではよく食べますが、西側では余り食べません。
私たちの住んでいる、この邇波県の地は西日本の東の端に当たります。縄文人と稲作文化を持ってやって来た弥生人とが二百年もの間、この地で接していたことになりますが、どんな付き合いをして暮らしていたのでしょう。
異なる文化を持った人々が接していると、その地域の文化は飛躍的に向上すると言われています。大荒田命の活躍した邇波県も、後の世のことになりますが、織田信長を生んだ尾張の国も、そんな文化レベルの高いところなのです。
良く晴れた日に、この青塚古墳の頂上に立って濃尾平野を一望してみて下さい。

(8)木曽街道、善師野の宿


木曽街道沿いに城東小学校の西側を北上し、次の四辻を右折します。しばらくいきますと富岡の方から来た県道に合流します。
この県道は善師野を東西に突っ切り、峠を越えて可児に入り御嵩に通じる道です。今、昔の東山道を正確に知ることはできませんが、大まかに言えばこの県道に沿って右になったり左になったりしながら御嵩に向かっています。
東山道は古代七道の一つで、京都から美濃・信濃の山の中の道を通り、関東平野を通過して陸奥に至る日本を縦貫する幹線です。犬山はこの東山道から大きな恩恵を受けて来ました。
県道に出てから200m程東進したところで左折し、東山道と別れます。すぐ善師野川に架かる小さな橋を渡りますが、村の人はこの橋を伝馬橋と呼んでいます。
伝馬とは公用の人や荷物を運ぶことに使われる馬のことです。近くに用立てる馬の溜まり場があったのでしょう。
駅の直ぐ西で広見線の踏切りを渡ります。線路を越えた左に小さな祠があります。ここに御番屋と言って宿場町の出入りをチェックする番人の詰所があったそうです。
ここから北が木曽街道善師野の宿でした。街道の両側には旅籠や茶屋が立ち並び、昔は旅人で賑わっていたことでしょうが、今はのどかな農村の風情です。
宿場の中程に右へのT字路があり、その角に常夜灯があります。T字路の手前の角は空き地となっていますが、その東は堀沢周安の家だったと教えられました。堀沢周安と言っても知る人は少ないと思いますが、「田舎の四季」「明治節の歌」「日の丸の歌」などの作詞者と言えば、「えっ、そんな人が善師野に?」と驚く人もいるでしょう。


善師野の宿と常夜灯
明治の頃活躍した教育者で、文部省唱歌の作詞などを多く残した人です。
緩やかな坂道をさらに登りますと左に禅徳寺と言うお寺があり、その先がこの宿場の本陣を勤めた日比野家です。初代尾張藩主、義直公がこの日比野家で休憩を取ったのが切っ掛けで、以後代々本陣を勤めて来ました。本陣は大名など位の高い人の宿泊する所で、宿場の中心でした。
宿場と別れて北に向かって進みますと次第に草深い山道になり、十分程歩きますと紺碧の水をたたえた大洞池に出ます。
池を過ぎた所で東海自然歩道にぶつかります。十字路を直進すると峠の十字路に出ます。ここが県境です。この十字路も直進しますと次第に視界が開けてきて、前方に鳩吹山が見えてきます。下ればもう土田です。

(9)飛騨街道、栗栖の渡し

余坂、小島橋の北詰を東に進み妙感寺の前を通過しますと、その後ほぼ北東に進む狭い曲がりくねった道になります。この道はサンパークの北で南から来た広い道に合流し、モンキーパークの前を通り、寂光院の方へ向かいます。寂光院を過ぎると木曽川の川沿いを北上します。この道が飛騨街道です。
栗栖の集落を抜けて木曽川沿いに更に上流へと進みますと、川平遊歩道に入り、左前方にNTTドコモの鉄塔が見えます。この鉄塔のあたりを渡し洞と言い、昔この下に渡し場があったのです。栗栖の渡です。
数年前までは渡し場までたどり着くことができたのですが、今では笹と蔦が密生し、近付くことすら困難になってしまいました。
対岸の勝山へ渡り、飛騨へ向かったわけですが、今の国道41号線の役割をしていました。
対岸、頂上に展望台の見える急峻な山があります。昔、この山の頂上に猿啄城がありました。織田信長は犬山城を落とした後、東美濃に攻め入ったのですが、その最初に攻め落とした城がこの猿啄城です。
この辺りは川幅が狭く大変な急流です。そこで川に綱を張り、その綱を頼りに渡河したと記録にあります。
渡し洞から東の方へ山を越え、鳩吹山に至る川平遊歩道が整備されています。
渡し洞の渡しから300m程下流に古渡橋と言う名の橋があります。上流の今渡と対になっているのでしょうか。
そこから更に数百メートル下流に新しい栗栖の渡がありました。舟着場に下る石畳の道が残っていて情緒があります。
栗栖の渡が渡し洞からここに移ったのは明治35年頃で、近代的な渡しに一変しました。
川の両側に高い柱を立て、その間にワイヤーロープを張ります。ワイヤーロープに滑車を掛け、滑車からワイヤを垂らします。ワイヤの端を舟の横腹に固定して装置は出来上がりです。川の流れに対し舟の横腹が或角度(例えば45度)を持つようにセットすれば舟は川の流れによって自動的に対岸へ進んで行きます。
この発明によって渡し舟は大型化し、また川が増水しても欠航しなくなりました。
新しい栗栖の渡しから対岸、上流の方を見ますと国道21号線の上の崖に観音さまが見えます。岩屋観音と呼ばれていますが、この崖の中腹を中山道が通っていました。中山道の難所中の難所で、旅人を苦しめた所だったそうです。
栗栖の里の春は桃源郷のように美しく、幸せそうでした。


昔の栗栖の渡から猿啄城を望む

(10)桃太郎伝説と吉田初三郎画伯

可児市の「塩」と言う交差点を北へ100mも進みますと可児川を渡ります。すぐ下流に鬱蒼とした森に覆われた島が見えます。これが「鬼が島」です。島に渡る橋もなく、いかにも鬼の住んでいそうな不気味な島です。
栗栖の里や周辺には桃太郎伝説に出てきそうな地名が沢山あります。例えば「猿洞」「雉が棚」「桃山」。先々月書きました「猿啄城」は木曽川の対岸にあります。
これらの地名は古来からのものと言われていますから桃太郎伝説発祥の地は岡山や高松ではなく、栗栖の里ではなかろうかと考えたくなります。
実はそう考えて真剣に調査研究した結果、「栗栖こそ桃太郎伝説発祥の地である」と確信するにいたり、日本中に宣伝してまわった人がおりました。「大正の広重」と言われた吉田初三郎画伯です。
掲載した絵はその吉田初三郎画伯の作品で犬山の町を中心に置いた風景画です。鳥かん図と言って高いところを飛んでいる鳥の目に映った風景を想像して描いたものです。手前に木曽川、右よりに犬山城、遠景は濃尾平野なのですが、不思議なことにその向うに富士山が見えます。鳥が何羽も飛んでいることになりますネ。
この吉田初三郎と言う人は京都の人ですが、全国を股にかけて活躍した人です。大正12年名鉄の上遠野社長の招きを受けて継鹿尾に「蘇江画室」を開き、昭和11年までの14年間、ここで多くの名作を残しました。
独創的でユニークな鳥かん図を世に出した優れた人が近くに居たのです。今のコンピュータグラフィックの先駆けです。
桃太郎最後に姿を隠したと言われる桃山は今の桃太郎神社から上流へ700m程行った所を右に入りますと栗栖神社があり、鳥居の右側に登り口があります。
桃山の頂上に立ちますと眼下の木曽川が岩を噛む音や高山線の列車のレールを叩く音がこだましてきます。
桃山の麓には桃太郎神社の元になった桃山信仰の象徴とされる「環状列石」があります。
「栗栖遊歩道案内図」がレストランなどに置いてあります。

善犬山の鳥かん図   画:吉田初三郎