織田有楽斎長益(1547−1621)(父、信秀の11男で、信長の弟、淀殿の叔父。)武将としてよりも折衝役、補佐役、
茶の宗匠として名を成した。文字、算勘をよくし、謙虚で、忍耐強く、交渉ごとや交際等に欠かせぬ人物であったので、信長死後も
秀吉、家康に重用された。関が原戦では東軍に属し、後3万石の大名となった。また秀忠の茶道指南役として江戸にも屋敷を構え、
有楽町、数寄屋橋の名を残した。大阪冬の陣では、秀頼守役として講和を斡旋、夏の陣の前に、京都 建仁寺正伝院に
隠棲 茶室如庵を建てた。このように75歳まで戦乱の世をしたたかに生き抜き、家系は明治まで続いた。
温厚な人柄、豊かな教養、芸術的天分に恵まれたが、世渡りもなかなかの人物である。
臨済宗南禅寺派虎渓山永保寺
多治見の北東、土岐川の流れに臨み小高い丘の傾斜を利用した虎渓山永保寺は禅僧、夢窓疎石が、中国江西省の名山、
廬山の虎渓に景色が似ているとして、庵を営んだことから始まったとされる。室町時代には山内三十余坊を数えたが、応仁の乱等で
ほとんど焼失し観音堂、開山堂、庭園のみが昔の姿をとどめている。明治以後、方丈、庫裏、座禅堂などが整えられ今日にいたっている。
開創 夢窓疎石 (1275−1351)
鎌倉末期〜室町初期の臨済僧。伊勢の人、天竜寺を開山したほか、諸国に安国寺を建立した。また庭園を愛好し、
各地に名園を残した。正和2年(1313)より当地に3年滞在された。
開山 仏徳禅師(元翁本元)(1282−1332)
夢窓国師の法弟で、国師が再び行脚に出られた後を継がれた。
永保寺観音堂(水月場) 一棟
正和3年(1314)建立。 昭和27.3国宝指定。
明治39年解体修理。鎌倉末期の唐様建築のすぐれた遺作といわれる。
屋根に美しい反りを持ち、木割が細かく、細部に装飾が多いが、全体と
して禅宗様式の簡素美がある。ご本尊は聖観世音菩薩(県重要文化財)である。
庭園は観音堂、岩山、橋(無際橋)、池(臥竜池)などで巧みに組み合されていて、
中世禅宗寺院の庭園として国の名勝に指定されている。なお、庫裡前に天然記念物
大銀杏の木があり、山内には天然記念物シデコブシ群生地がある。
永保寺開山堂 附宝筐印塔 一棟
文和元年(1352)建立。 昭和27.3国宝指定。
明治41年解体修理。入母屋造で檜皮葺。純正唐様ともいうべき室町期の代表的建築である。堂内には夢窓国師像、仏徳禅師像、宝筺印塔が安置されている。
なお、開山堂は庭園西北部の奥まったところにあり、漠然と歩いただけでは見当らないので注意されたい。 |
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| 永保寺観音堂と無際橋 |
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| 永保寺 観音堂 |
永保寺 開山堂 |
建造物や庭園の撮影は通常あまり移動できない狭い場所からとなるので、28mm以上の広角レン
ズがよい。時には25mmや18mmが欲しくなる。しかし、広角レンズは上下に傾けると歪曲収差
がでるので、できるだけ水平に保ち、慎重に構図を作らねばならない。
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